現代人にとって、コミュニケーション能力は必須である。

SNSで人と人が簡単に繋がれるようになったからこそ、コミュ力がある者は重宝され、ない者は淘汰される。これはコミュ力重視の世の中が良いか悪いかの話ではなく、今はそういう世の中になったという事実である。現代を生きるためにはなるべくコミュ力をつけた方が良い。そのことを説明するために「脱糞だ(だっぷんだ)」という話をしたい。

断っておくが、たいしたオチはない。

僕が小学5年生の時の話だ。ゴールデンウィーク明けの少し過ごしやすい日、午後の授業中にある事件が起こった。授業も中盤に差し掛かった頃、うんちの匂いが教室中を覆い始めた。それは教室が臭気の魔法にかかったような不思議な気持ちにさせられた。まるでファイナルファンタジーの最強黒魔法「アルテマ」を唱えられた気分だった。そして、一番後ろの席に座っていた少女が泣き出した。彼女は涙をこらえていたのだが、それが堪えきれずに泣いてしまったようだ。当時の僕は、一言「トイレに行かせてください」と先生に言えばよかっただけなのにと思った。しかし、それができないのが小学生だということは今ならわかる。

そんな中、笑い声が聞こえ始めた。それは少女の隣にいる少年が爆笑しているのだった。僕はますます少女のことを気の毒に思った。それと同時に、笑うなんてかわいそうだと思った。黄色の霧がかかったような状況の中で、少女の泣き声と、少年の笑い声が、シーソーゲームのように交互に聞こえた。最終的には、先生がすべて処理をしてくれた。

コミュ力がないと生きにくくなる。自分の願望を伝えるというコミュ力、他者の気持ちを考えるというコミュ力、どちらも大切である。これは個性の話ではなく、みんなが持っているべきスキルなのである。

先生が処理をする段階で真実が明らかになった。うんちを漏らしたのは少年で、少女はその匂いが臭すぎて泣いていたのだ。

脱糞だ(だっぷんだ)は少年だったのだ。