現実は1つではない。
戦争体験者と非体験者では「戦争が存在する世界」に対する感じ方も変わってくる。現実とは個人が感覚器で感じた世界のことを言う。私の現実とあなたの現実は別物だ。ということは、現実と言うものは人がそれぞれ作り上げることができる。このことを考えるために「ダスキンがオナホを洗う」と言う話をしたい。
断っておくが、たいしたオチはない。
僕の家がダスキンに掃除を頼んでいた時がある。ダスキンはまず台所から掃除を始める。いつものようにダスキンが台所を掃除していた時のことである。僕が昨晩使ったオナホがシンクの横に置いたままであった。ダスキンはオナホが汚れていることに気づき洗い出した。
僕は「それは洗わなくていいです」と言おうとした。しかし、すでにダスキンはオナホの外側を念入りに洗い出していた。何の抵抗もなくオナホを洗うということは、それが何の道具かわからないからだと思った。
実際、ダスキンが僕に「これは何に使う道具ですか?」と聞いてきた。
僕は「オナホです」と答えるわけにもいかず、「調理器具です」と答えた。
ダスキンは「そうなんですね」と言いながらオナホの内部も洗い出した。
その洗い方は、シミケンが潮を吹かす時と同じ手つきだった。
僕は「何の道具かわからないのに、そんな手つきになるはずがない」と思ったが、ダスキンは調理器具だと思い、熱心に洗ってくれた。
オナホと言う世界に対して、「調理器具だと思い内部を指で洗うダスキン側の現実」と、「潮の吹かせ方を実演で見せられている僕側の現実」の2つの現実がある。
現実とは個人が感覚器で感じられるものであり、人の数だけ現実がある。ということは、人が世界をどう感じているかで現実が決まり、ポジティブに感じればポジティブな現実が、ネガティブに感じればネガティブな現実が、そこにある。そういうことなら、この世界をポジティブに捉えてはどうだろうか。
「あの角を曲がるとワクワクするような楽しい世界がある」そう自分に言い聞かせよう。