「正義中毒」という言葉がある。

特定の個人が自分の持つ正義感に基づいて、他人を厳しく裁いたり、自身の価値観を他人に押し付けたりする状態を指す。ただ、「他人を裁くことなかれ、自分が裁かれないために」という言葉がある。これは自分もやらかすかもしれないのだから、他人のスキャンダルを大目に見ておこうということである。このことを説明するために、「孔子の朝帰り」という話をしたい。

断っておくが、大したオチはない。

世界の4大聖人を知っているだろうか。釈迦、孔子、ソクラテス、イエスである。そのうち、孔子の話をしたい。孔子は2500年前の中国の先生で、人として良い振る舞いや道徳を教えることに力を入れていた。彼は「仁」という考えを大切にした。「仁」とは「思いやり」や「人を愛する心」を意味する。彼は多くの弟子を育てながら、いくつかの国を旅して回った。国語の教科書で「子曰く、『学びて時にこれを習う、また喜ばしからずや』」などを習ったことがあるだろう。

ところがそんな孔子だが、弟子との旅の途中、夜中に人妻に会いに行ったことがあるそうだ。そして朝帰りが弟子に見つかり、「先生、何をやっているんですか」と問い詰められた。孔子は「一線は超えていない。一線は超えていない」と2度繰り返しただけだった。でもそこは「子曰く、『やりたい時に人妻とやる、また喜ばしからずや』」と清々しくバシッと決めて欲しかった。

これでは今井絵理子と同じである。孔子が今井絵理子レベルなのか、今井絵理子が孔子レベルなのか、SPEEDファンの僕は後者だと言うことにしている。聖人と言われる人でも不倫をしてしまうのだ。孔子=聖人、孔子=絵里子という公式が成り立つなら、絵里子=聖人になる。絵里子を世界の4大聖人に加えたらどうか。いっそ世界の4大聖人を「絵里子、仁絵、多香子、寛子」にしてはどうか。SPEEDの再々結成になる。

聖人に値するような行動をする人は尊敬に値する。しかし、みんながそうでなければならないわけではない。人間は機械ではない。生身の体を持った生物だ。バイオリズムの関係でやらかしてしまうことは当然ある。

他人の悪をスルーし、絵里子が言うように、「矛盾だらけの世の中で良いも悪いも興味がない」というスタンスで行きたい。