「多様性」という言葉がある。

いろいろな考え方があるけれど、みんなそれぞれ認めていこう。これが多様性の意味することだ。多様性を認めることから絶対的価値の存在が薄れ、「人それぞれの価値観で生きることをよし」とする考えが強まった。今日は多様性を考えるために「マトモなエロ本」と言う話をしたい。

 断っておくが、たいしたオチはない。

 僕が大学生の頃、古本屋でよくエロ本を買っていた。そのエロ本は親に見つからないように巧みに隠してあった。隠した場所は、グッチ裕三のステルスマーケットのように巧妙で、絶対に見つかる事はなかった。

そんな僕だが、読み終わったエロ本を勉強机の上に置いたままにしておいた時があった。僕が部屋にいない時に、父親がそのエロ本を見つけてしまった。そのエロ本は「女性が身体中に包帯を巻いていて、肌の露出は服を着ている時よりむしろ少ない」と言う内容だった。

 翌日、父親が僕に「お前はマトモなエロ本が見れんのか?」と聞いてきた。僕は「マトモなやつも見てる」と言いかけたが、その発言も何か違う気がして、「人の部屋に勝手に入るな」とだけ伝えた。

 では、ここで言う「マトモ」とはなんだろう。誰が「マトモかマトモじゃないか」を決めるのだろう。「この人の人生はマトモで、あの人の人生はマトモじゃない」と他人を評価する人がいる。しかし、それは絶対的な正解ではない。多様性を認めようと言う時代において、「マトモ・マトモじゃない」と言う基準がおかしくないか。

 人は自分が望むままに人生を送れば良い。「マトモじゃない」と後ろ指刺されても、自分のモノサシで決めた人生を歩もう。人の数だけマトモはある。みんながみんな違う道を進んでいく。その道のどれも間違いではない。

 間違いではない事は、歩んだ後に散らかったティッシュが証明してくれる。