僕は「メタルスライム」を見つけることが「得意」です。

「メタルスライム」と言うのは「ドラクエのモンスター」です。

倒すことで「効率よく主人公のレベルを上げてくれるモンスター」です。

 

僕は「効率の良い方法」を「見抜く力が高い」と「自負」しています。

特に「僕が意識している」のは、「効率の良い幸せの掴み方」です。

どうやったら、「手軽に幸せになるか」考えています。

 

例えば、「十分に睡眠が取れたときの幸せは、宝くじで1000万円当たった時と同じ幸せだ」と言う「研究」があります。だから「睡眠」にこだわります。「眠れる時間」があれば「できるだけ寝る」ように心掛けています。「無理に2時間早く起きても」その2時間で「1000万円の価値ある仕事」ができないからです。僕は「1日10時間」寝ます。

 

ただ、「早く起きようと思う事」はあります。それは「健康に良い朝散歩をするため」です。

 

健康であれば「気分の良い毎日」が過ごせます。

健康であれば「立派な家」に住む必要はありません。

 

「セコムがついている家」で具合が悪くて「ベッドで寝込んでいる」より、

狭くても「エアコンと空気清浄機のある部屋」で「ゲームや読書」ができる方が幸せです。

「狭い部屋」でも「気分よく過ごせれば」十分です。

 

そもそも、「セコム」をつけると「泥棒にはお金は取られない」けど、「セコム」には「定期的にお金を取られること」になります。確かに「安全な家に住むこと」は出来ますが、「セコムをつけている家」は基本的に「治安の良い場所」にありませんか。その場合は「リスク(セコムに払うお金or盗まれるお金)の期待値(リスク×リスクが起こる確率)」で考えた時、セコムをつけるかどうか「リスクの期待値の低い方を選ぶべき」です。

 

「服」も「高いもの」を好みません。基本的には「白と黒」だけです。「他の色」も良いなぁと思います。しかし大前提として、「人は自分のことしか考えていない」と思っています。

 

あなたは「一緒に遊んだ友達」が「どんな服を着ていたか」覚えていますか。

みんな「自分をどう見せるかが最優先」で、「他人の事」は「二の次」になっています。

だから「かっこいい服にお金をかける」のではなく、「着心地が良く無難な服を着るように」心がけています。

 

「ここ一番の服」は持っていますが、普段は「無難な服」を着るようにしています。

 

僕の言う「無難な服」とは「ロゴや奇抜なギミックが入っていないもの」です。

ロゴがあれば「好き嫌い」が生まれます。「みんなが好きなロゴ」は「価値がある」ので価格が上がります。そして当然「そのロゴが嫌いな人にはマイナス」になります。「評価のプラスとマイナスの総和」が「プラスでなければロゴに意味はなく」、プラスだと判断した時、「そのロゴによって上乗せされた価値」に「お金を払うだけの価値」があると考えられます。

 

この話は「ロゴを否定する」のではなく、「ロゴなしが無難」だと言う話です。

 

「色に関して」も「あれこれ考える」より「白黒が無難」だと言う話です。「色彩のことを勉強したこと」がありますが、「この色とこの色を合わせるといけない」などの「ルール」があり、「それを考えながら服を選びたくない」と思っています。

 

僕は「楽だから黒色で行動している」のですが、「近所の人」からは「僕の職業はデザイナーだ」と「勘違いされて」いました。

 

「合コンにスーツで来る男」がいます。

「下手にダサい服を着てくるより賢い」と思います。「ずる賢い」と思います。

 

実は「僕も合コンはスーツ」で行きます。正確には「ズボンはスーツ用」ではなく、「ウエストがゴム」の「スーツに見えそうな黒のもの」を着て、「白シャツ」に「黒ジャケット」です。「ジャケット」と「ズボン」は「セットではありません」が、「セットに見える楽なズボン」を着ています。

 

「僕の髪型」は「坊主」です。週に1回、「0.1ミリのバリカン」で、「丸刈り」にします。「普段はニット帽」をかぶっています。「初対面の人に合う時」は「女性用のショートヘアのカツラ」をかぶります。「カツラをかぶる時」は「メイクもして」います。「メイクとカツラの時」は、「アーティストの西川貴教」をイメージしながら、それに「近づくようにメイク」をします。「身長163センチの僕」が「活路を見出すため」には、「中性的がテーマ」です。

 

僕が「メイクした時」は「50歳手前のおっさん」にしては「かわいい」と思います。

 

「外見は中性的」ですが「恋愛はストレート」です。「異性に対して普通に恋」をします。「健康に人一倍気を遣っている」ので「性欲」も衰えていません。

 

しかし「女性にムラムラする感覚」が「他の男性より少ない」のではないかと思います。

特に「胸に関して」は何の「ムラムラ」もありません。

 

「巨乳のグラビア」で「興奮できる人」が羨ましいと思います。

「巨乳でムラムラ」できないのは「人生で損」しているなと思います。

 

「胸に興味」がなくなったのは「ある事件がきっかけ」です。

「その事件」までは「普通の男性」くらいは「胸に興味」がありました。

 

その事件は「2000年」に起きました。当時、今で言う「マッチングアプリ」で「知り合った女性」がきっかけです。

 

彼女は「顔は普通だけど、胸の美しさだけは自信があるから見せたい」と言うのです。

 

僕は「美しいおっぱい」を見るために「2時間車を走らせて移動」しました。

 

「彼女は親と同居」でしたが、「自宅の自分の部屋」に「僕を入れて」くれました。「彼女の部屋に入る」なり、僕は「胸を見せてほしい」と頼みました。彼女は「普段自分の寝ているベッド」に「横になり、仰向けで、シャツをまくり上げ」胸を見せてくれました。「ブラ」はつけていなかったです。

 

「時刻は夕方過ぎ」で、電気付けていなかったので、「部屋は薄暗かった」のを覚えています。

 

しかし、彼女の胸はを見たとき、まるで「胸が光を放っている」ように見えました。「写真集とかでもみたことないくらい綺麗な胸」でした。

 

「彼女の胸を見ていると」とても「神秘的な気持ち」になりました。

 

「2人きりだから襲ってやろうと言う気持ち」には全くなりませんでした。

 

「胸を見ていた時間」は「3分位」だったと思います。しかし、「僕が感じた時間」は「数時間位」でした。

 

あまりに「美しい胸」を見たため、「時の流れがゆっくり」になってしまったのだと思います。

 

その日、彼女に「ありがとう」だけを伝えて帰りました。「会話」はほとんどなく、「体に触れること」もなく「15分ほど」で「彼女の家」を後にしました。その「神秘体験」以来、僕は「女性の胸に対しての執着」が一切なくなりました。「女性の胸に対しての悟り」が開けたのです。

今も「女性の胸で興奮」しません。

 

その後、「2015年に大学院に社会人入学」し、「数学を研究すること」になるのですが、その時から、「僕は巨乳より積分の方が興奮する」と言い続けてます。これは「ネタではなくガチ」です。友達が「Fカップ」だとか、「Gカップ」だとかで話が盛り上がっているの聞くと、僕は「何とか共感しよう」と思うのですが、全く「共感」できません。そこで僕は「積分や重積分を解いていること」を想像して、「xで積分」した後に「yで積分」し、場合によっては「zでも積分すること」を考えます。そして、「友達の巨乳への思い=僕の積分への思い」だと変換し「めっちゃ興奮するね」と「共感する」ようにしています。

 

このように僕は「数学が好き」です。普段「ものを考える時」も「数学を勉強すること」で身に付けた「物事の抽象度を上げること」をよくします。抽象度を上げ、「その事象の本質を見抜こう」とします。本質を見抜いて「より効率的」に考えます。

 

「僕が本質を見抜いた例」として、「人は中身が100%」があります。

 

これは「人間関係」において、「中身しか重要ではない」と言うことです。「中身のない人と絡む」と言うことは、「価値の無いモノ」に「時間とお金を投資すること」になります。「外見も関係ある」と言う人もいるかもしれませんが、「深い絡み」をすればするほど関係なくなります。結局、「深い絡みほど意味がある」ので、「浅い絡みには必要かも知れない外見の割合」は考えなくていいのです。

 

他に「本質を見抜いた例」として、僕は「結婚指輪はしないほうがいい」と考えます。社会的に「良い夫」を演じた方が「ビジネスで得」なら、したほうがいいと良いのですが、「この指輪」を「次のように解釈」されないかと考えています。

 

「私には妻がいます。妻を愛しているのでその証に指輪をします。もし私が困っても私には愛する妻がおり、妻が助けてくれるので、あなた方の助けは要りません」

 

人は「少し困っている人」を「助けようとする傾向」があります。

「ものすごく困っている人」は見放してしまいます。

 

本当は「何でも出来る自分」であっても、「少しダメな自分を演出」して、「その部分を他人に助けて」もらえば、「余った力」で「他の生産的な活動ができる」と僕は考えています。

 

そういった意味で「他人を助けてもらうため」にも、「指輪はしない方が良い」のではないでしょうか。

 

「ベンツは横断歩道で止まらない」と言う話を知っていますか。

 

「ベンツ」に比べて「軽自動車」の方が「横断歩道で止まる場合が多い」ようです。

「ベンツに乗る人」は「裕福」なので、「他人の力を借りなくても自力でなんとでもなる」のです。だから、「他人と助け合う必要が少ない」のです。「他人の助けが要らない」から「他人を助けない」のです。

 

「そんな気持ち」から「ベンツは横断歩道では止まらない傾向がある」と言う「統計」が出ています。「ベンツは止まらない傾向がある」のはみんなに刷り込まれ、「ベンツは嫌いと言う意識」が生まれるのです。しかし、「自力で生きていける」としても「助けはある方がいい」です。だから、ベンツに乗って「俺は1人でも生きていける風の顔」をするより、軽自動車に乗って「困った時はみんなで助け合いましょうと言う顔」をしていた方が得なのです。「高級車vs.軽自動車の対立構造」では、「どちらが勝ちと言う話」は置いておいて、「軽自動車がコスパがいい」のです。

 

このように、僕は「どうすれば得か」「どうすれば生産的か」をよく考えます。

 

そんな僕ですが、「人が生きる上」で「生産性ばかりを重視する」と「味気ない人生になる」と考えています。

 

特に、現代は「より生産的と考える傾向」があると思います。「非生産的な1日を送る」と「罪悪感を感じる」のではないでしょうか。

 

「生産性と非生産性」に「どう折り合いをつけるべき」でしょうか。

 

僕はこう考えます。まずは、①「どうすれば生産的か」ということを知る。②「知った上」で「それを使うかどうか」を考える。③「毎回生産性を追い求めること」が正解ではない。

 

「生産的な生活を送るための知性」と「非生産的な生活を送る心のゆとり」、「両方持つこと」が「より良い人生を送るコツ」ではないでしょうか。

 

僕は、「何の根拠もない」けれど、「非生産的な1日を送った時は運気が上がる」と考えるようにしています。

 

「非生産的な日に対する罪悪感」の「対処法」です。

 

それに「生産性・効率を突き詰めて突っ走った先」に何が待っているのでしょうか。「使い切れないお金」を貯めて、「それを使う時間」もなく死んでいく。

 

「生産的な行動で稼いだお金」を「非生産的な行動で使っていく」。

 

「人が生きる」とは、なんと「不合理なもの」でしょう。

 

合理的:目的があってムダがないこと

 

しかし、「これを不合理と考えること」が「人生を楽しめなくする要因」ではないでしょうか。

 

「不合理を合理的に受け入れる」と言う「不合理」。

 

「ここから導かれる解」は「考えすぎるやつは損をする」です。

 

そんな時、思い出されるのは「アントニオ猪木の言葉」である「バカになれ!」です。どれだけ「バカになれるか」で「幸せになれるか」が決まってくるのと思います。「幸せになれた人」が「真の成功者」です。「真の成功を掴みたい」なら、「生産性、時々、バカ」で良いのだと思います。

 

自分が「バカなこと(非生産性・不合理・無計画的)をした時」は、これは「必要バカ」だと思ってください。もっと言うと、それは「不必要バカ」だったとしてもいいと思います。

 

人生って「そんなもん」じゃないでしょうか?